普天間基地問題備忘録。県政の継続性の無さと国会議員の決断力の無さ。

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普天間備忘録
2月1日、沖縄に行くにあたり、辺野古移設の経緯を確認しておきたい。(普天間交渉秘録参照)
ふり返りみて、沖縄県の首長(知事、市長)、議員等たちの「無責任さ」「狡猾さ」に驚くとともに、当時の政府関係者、国会議員の「決断力の無さ」「リーダーシップの無さ」に愕然とする。それは今に至るまでまったく変わっていない。ガバナビリティー・ゼロと言いたくなる惨状だ。
時は1996年、今から20年前のことである。故橋本龍太郎総理の下、7年以内に普天間飛行場のヘリコプター運用機能のほとんどを移設し、普天間飛行場を返還するという取り決めがなされた。
さらに、1997年12月。橋本総理と比嘉鉄也名護市長の会談で、普天間基地の返還に伴う代替海上基地の名護市辺野古沿岸への受け入れが合意された。名護市の住民投票で、移設受け入れ反対が過半数(53%)であったにも関わらず、比嘉市長は勇気ある政治決断をされた。その責任をとってこの後、市長は辞職した。比嘉市長の英断により日米合意が確固たるものに。(なったはずであった)
それから12年後の2010年の沖縄県知事選の際、私の担当した名護チームのメンバーがローラー作戦を展開中、偶然、比嘉鉄也氏の自宅を訪問し、ご本人が、当時の鳩山総理の「県外移設」の発言に、体を震わせて怒りをあらわにされた話を皆で共有し、辺野古移転を支持していた我々として大変勇気付けられ経験がある。
話を1997年に戻す。地元名護市長の勇気ある決断で辺野古移設を受け入れたはずであったが、当時の大田昌秀知事が、これに反対。2年間にわたり日米合意は一歩も進まず暗礁に乗り上げた。
1998年11月。県外移設を訴える大田知事を破り、「県内に軍民共用空港を建設する。米軍の使用期限は15年とする」ことを公約にして稲嶺恵一氏が当選した。
しかし、稲嶺知事もこの問題に積極的に取り組む事はせず、規模、工法、具体的建設場所を決めるのに結局4年近くかかった。
2002年11月、稲嶺知事は再選。今度は、環境影響評価(アセスメント)が待っていた。しかし、2003年1月、稲嶺知事は、その費用に関し、当初の取り決めと違う事を主張しはじめた。平行線のまま、2年が過ぎた。知事就任後6年たっても、建設現場では何も進まなかったのである。
この間、北部振興策として年間100億円単位が国庫から支出されていた。
2003年11月。ラムズフェルド国防長官が沖縄を視察。普天間基地の危険性を見て、危機感を募らせ「移設は5年以内(2008年)に何とかしろ!」と周囲に命じた。アメリカの不満も限界に達していた。
2003年12月。稲嶺知事の主張(変節)を受け入れ、アセスメントの費用を全額国が負担することにした。
2004年になっても何ら進展しない。
2004年8月。沖縄国際大学へ米軍ヘリ墜落。稲嶺知事は、これを米国に激しく抗議。普天間基地の早期返還をマスコミを前に要求。こうした事故を無くすためにこそ基地移設を合意したはず。サボタージュを続ける稲嶺知事に言う資格はまったくない。こうした知事のサボタージュをマスコミは一切追求せず、ひたすら基地よ出ていけ!と騒いだのである。
当時の石破茂防衛大臣も稲嶺知事に同調してラムズフェルド国防長官に抗議しようとし、守屋事務次官(当時)から止められたという。(石破大臣もわかっていない。情けない話だ。)
2004年9月。建設予定水域でのアセスメント調査の準備開始。反対派の妨害で中止。海上保安庁は反対派の強制排除拒否。中止のまま年明け。
2005 年。調査中止のまま。キャンプ・シュワブ(辺野古沿岸)の滑走路の設計案を検討。協議難航。
2005年10月。アメリカ、防衛庁のL字案を受け入れる。「普天間移設、防衛庁案で決着」と報道された。
この決定により、稲嶺知事の公約、軍民共用空港案は、何ら進展しないまま、7年間を無為(知事のサボタージュ)に過ごし白紙化された。
2005年10月。稲嶺知事と岸本名護市長が、またもや日米合意L字案を拒否すると表明。
当時、事務次官だった守屋氏は、稲嶺知事に「あなたは7年間、何もしなかったじゃないか」と詰問すると「守屋さん、沖縄では大きな仕事は20年かかるんですよ。石垣空港もそう だったでしょう。あの時だってそれだけ年月がかかっても誰も困らなかった。今回はまだ7年です。たいしたことないじゃないですか」と答えたという。まったく無責任。
その後、日米決着のついたL字案に対し、沖縄の政財界のメンバーは、浅瀬案(ライト案)なら沖縄は呑むと説明に動く。またもや難航。
2006 年4月。島袋名護新市長。前市長の意向を受け、政府案に反対表明。石破元大臣も賛同。(石破大臣は、これら一連の沖縄の意向が、巧妙な罠(わな)、つまり 引き延ばすだけ引き延ばし、振興策のお金をダラダラもらう、そして普天間の軍用地主の利権もダラダラ先延ばしするというズルイ戦術であることがわからな い。)
これ以降、結局、沖縄の政財界のメンバーは、日米合意を尊重することなく、ずるずるずるずる自分たちの思い通りにしようといろんな画策をする。
結局、その後の折衝で国と名護市で、V字案で最終基本合意がなされた。(知事は知らされていないとコメント)
2006年5月。国と稲嶺県知事とV字案で確認書と取り交わす。額賀防衛大臣と稲嶺知事の共同会見行う。しかし、その会見の記者からの質問に、稲嶺知事は、信じられない発言をした。「政府と合意はしていません。」確認書を取り交わした直後の発言である。信じがたい発言。全くの無責任。
2006年5月末。確認に従い閣議決定。北部振興策これに伴い廃止決定。
2006年9月。安倍晋三内閣誕生。
2006年11月。沖縄県知事 仲井真氏当選。(政府V字案の修正を要求。基地県内移設は容認)
2007年。仲井真知事と末松名護市助役が合意V字案に関し、再びかき回す。久間大臣は、譲歩の構え。久間大臣の姿勢にアメリカ不信感を抱く。
仲井真知事、中川秀直幹事長が500m移動を認めていると発言。混乱。
2007年7月。久間防衛大臣辞任。小池百合子防衛大臣。沖縄島袋名護市長等の守屋次官外しの要望で、小池大臣、突然守屋氏の更迭を発表。
2007年8月。小池大臣離任。守屋次官退任。
2009年。鳩山、県外移設を訴える。
2010年。仲井真知事再選。任期最後に辺野古移設を承諾。
2014年。翁長知事当選。辺野古移設反対を唱える。
県政の継続性は一切なし。一貫して継続しているのは、国から沖縄への振興策、補助金のばらまきである。


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この記事は幸福実現党岐阜県本部副代表・政調会長加納有輝彦さんのブログ「一憂国者の紙つぶて」よりご寄稿頂いたものです。

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