飲酒運転の悪と運転技術の低さの悪は何が違う?公平な罰則が求められる

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[裁判員裁判]強盗強姦罪で求刑通り懲役15年 青森地裁裁判員裁判が導入され、予期されていた事態が現実のものとなりつつある。加害者が犯罪事実を認めている事件で求…

情報源: 厳罰化の流れは続く。|堀江貴文オフィシャルブログ「六本木で働いていた元社長のアメブロ」
ホリエモンこと堀江貴文氏が罪の厳罰化の傾向に対し、様々なメディアを通じて苦言を呈していることはご存じの方も多いのではないでしょうか。
厳罰化の象徴といえばやはり「飲酒運転」です。飲酒運転を正当化、または擁護することはあり得ないのですが、行為と結果とそれを防ぐ目的を公平に勘案するべきです。
例えば飲酒運転をしても正常な運転をできる人はいるでしょう。むしろどちらかといえば圧倒的多数かもしれません。かたや素面の状態でも運転技術に難(精神的に安全運転に向かない人も含む)のある人は実際にいます。当然少数ですが、実際に車を運転していて相手方の理由で危険と感じたことは、相手が飲酒運転の場合が多いか、技術難の場合が多いかといえば、これは圧倒的に後者ではないでしょうか?
しかしスピード違反など以外の単純な技術難の場合、基本的に処罰の対象にはなりません。しかし、危険を引き起こすという結果は同等なわけで、もしその結果を防ぐための厳罰化であれば、運転の技術に難の人も徹底的に厳罰化しなくてはいけません。
想像して下さい。仮に最愛の人の命が交通事故によって奪われた場合、その理由が飲酒運転であれ、技術難であれ、悲しみや怒りに違いはあるでしょうか?技術なんだから許すことはできますか?

(記事:Yan!Yam!)

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